最近、仕事でも家庭でも、
いつの間にか「教える側」
に回る場面が増えてきました。
自分では特別なことをしているつもりはないのに、
立場だけが少しずつ変わっていく感覚です。
若い頃は、誰かに教える機会はほとんどありませんでした。
自分が覚えることで精一杯で、「どう伝えるか」まで考える余裕がなかったのだと思います。
それが年齢を重ねるにつれて、
後輩や新人、時には子どもから
「これ、どうやるんですか?」
と聞かれることが増えてきました。
最初は単純に、
「どう説明すれば分かりやすいだろう」
ということばかりを考えていました。
でも最近、少し違うことに気づくようになりました。
それは、
「自分は本当に分かっていたのだろうか?」
という疑問です。
教える立場になるまで、自分が意識していなかったこと
これまでの仕事の中で、
自分では「当たり前」にやってきたことがたくさんありました。
何度も繰り返してきた作業。
体が勝手に動くような判断。
理由を考えなくても処理できる流れ。
それらは
「理解している」というより、
ただ慣れていただけだった
のかもしれません。
いざ人に説明しようとすると、
思っていた以上に言葉が出てこないことがありました。
手順は分かる。
結果も分かる。
でも、
- なぜその順番なのか
- なぜその判断になるのか
を聞かれると、うまく説明できない。
「昔からそうやっているから」
「自然とそうしていたから」
そんな曖昧な理由しか出てこない場面もありました。
人に教えようとして、はじめて立ち止まった瞬間
あるとき、後輩から
「それって、どういう基準で決めているんですか?」
と聞かれたことがあります。
自分の中では感覚的に処理していた部分だったので、
一瞬、言葉に詰まりました。
改めて考えてみると、
自分でもはっきり説明できないまま、
ずっと進めてきた部分が意外と多かったことに気づきました。
- 深く考えずに選んでいたこと
- 無意識に避けていたこと
- 経験だけで判断していたこと
質問をきっかけに、
そうした部分が一つずつ表に出てきた感覚でした。
教えることは、相手のためだけではなかった
人に教えるという行為は、
相手の理解を助けるためのものだと思っていました。
でも実際には、
自分自身の理解を整理する作業
でもあったように思います。
勉強でも、人に教えると理解が深まると言われていますが、仕事でも
同じだなと感じました。
言葉にしようとすると、
曖昧だった部分がはっきりします。
順序を考えることで、
無駄な工程に気づくこともあります。
「なんとなく」やっていたことが、
少しずつ「理由のある行動」に変わっていきました。
その結果、
自分の仕事の精度が少し上がったように感じる場面もありました。
判断に迷う時間が減ったり、
同じミスを繰り返しにくくなったり。
大きな変化ではありませんが、
仕事への向き合い方が、少し変わった実感があります。
うまく教えられなくても、悪いことではない
とはいえ、
今でも教えるのが上手いとは思っていません。
説明が回りくどくなったり、
相手の反応を見て言い直したり。
後から「もっといい伝え方があったな」と思うこともよくあります。
でも最近は、
「最初から上手くやろう」と思わなくなりました。
分からないことは、
一緒に考えればいい。
答えをすぐに出せなくても、
考え方や視点を共有できれば、それで十分な場面もあります。
教えることは、
完璧さを見せることではなく、
考える過程を見せることなのかもしれません。
今、教える立場になって思うこと
教える側になってから、
一番強く感じているのは、
「分かったつもり」が一番危ない
ということです。
慣れや経験が増えるほど、
考えることを省略しがちになります。
でも誰かに説明しようとすると、
その省略していた部分が、はっきりと見えてきます。
教える立場になったことで、
自分の仕事や考え方を
見直す機会をもらっているような気がしています。
おわりに
人に教える立場になって、
自分が思っていた以上に
感覚に頼って生きてきたことに気づきました。
それは少し恥ずかしくもありますが、
同時に、仕事や日常を見直す
良いきっかけにもなっています。
これからも、
うまく教えられない場面はきっとあると思います。
それでも、
立ち止まって考える時間だけは、
大切にしていきたいと思っています。
教える・教わるという関係は、今も続いています。


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